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熊本地震と東日本大震災
投稿者:SANZOKU 投稿日:2016/04/20(水) 22:37:28 No.7255 [返信]
熊本地震は収束の兆しが不透明で、全国の人は固唾を呑んでニュースを見守っているところです。
どうかこのまま収まってくれることを祈ります。

東日本大震災の折は、当地(関東のI県)も2度に渡って震度6弱から6強の揺れを感じました。
屋根瓦が滝のように落ちる様を目撃し、大きな欅が箒のようにバサバサ揺すられ、
電線がこれでもかというくらい上下に激しくのた打ち、自動車がバンバン飛び跳ねました。
今でもその光景が蘇ります。その後2~3日は震度5クラスの揺れが1時間に3回程度は襲ってきて、
小さな揺れを含めると揺れていない時の方が少ないくらいに感じられました。
あれほど微動だにしなかった大地が本当に壊れてしまったのかと思われる程でした・・・。
余震は次第に揺れと頻度を少なくしていきましたが、5年経過した今でも未だ元には戻っていません。
壊れた屋根や塀の復旧には2年の歳月を要しました。

また当地では福島の原子力発電所が何時爆発するかしれないという恐怖が街を覆っていました。
締め切った家に閉じこもり、街には人影さえなくゴーストタウンの有様でした。
たまに人に出会ってもカッパなどで身体を覆い、まるで防護服に身を包んでいるようでした。
原発が水素爆発した時は、驚天動地の暗澹たる気持ちでした。
スーパーの食料品陳列棚は1月足らず商品がなく、閑散としていました。
ガソリンスタンドだけは長蛇の車の列で、給油に1時間待ちは当たり前でした。
皆、原発が爆発した時に逃げるためのガソリンを確保していたのです。
もちろん自分もそのようにしていましたが、年寄りと二人暮らしなので即時避難は不可能と考え、
家中の穴を塞いで放射性物質の浸入を防ぎ、しばらく籠城して機を窺って逃げる算段をしていました。
今考えて見れば日頃の生活が、砂上の楼閣であったかのように感ずる日々でした。
ようやく少し活気が戻ってきたのは1ヶ月を過ぎてからです。

この病に打ちのめされた上に、被災されて予定の治療が受けられない方も居られると思います。
特に放射線治療の途中だった場合は、治療継続が喫緊の課題と思います。
広域の医療機関が協力して治療続行が可能なように取りはからっていただけますようお願いします。
また患者は気持ちを強く持って、治療に専念されることを祈念します。
苦しい時は何時か過ぎ去り、必ず明るい日がやってくることを信じて頑張ってください。
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