おなまえ
Eメール
タイトル
コメント
参照URL
添付File

暗証キー (英数字8文字以内)(あとで修正・削除する場合は要入力)
画像認証 (右画像の数字を入力) 投稿キー
文字色
滅せぬもののあるべきか
投稿者:OZFP 投稿日:2014/01/25(土) 16:37:51 No.4030 [返信]
この掲示板の読者や投稿者の中で、終着点への先頭走者だと思っていますので、早めに「死」に対する理解を深め心の備えにするのも無駄ではないでしょう。
Wさんが書かれたように、ここの掲示板に投稿されている方々のコメントはD2患者にはほとんど役立ちませんが、逆に再燃される方々に私のコメントは役立つかも知れません。
また憎まれ口を何年にも亘り投稿できていれば生存証明になり、皆さんの励みになったらと希望します。

D2患者のまさぞうさんがブログを去年8月で中断されているのを懸念していますが、その中で引用されている著書にアルフォンス・デーケンの「死とどう向き合うか」がありました。
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%BB%E3%81%A8%E3%81%A9%E3%81%86%E5%90%91%E3%81%8D%E5%90%88%E3%81%86%E3%81%8B-NHK%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%B9-%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%B3/dp/4140840455

死についてまだ真剣に考えた事のない人には成程と思い客観的な理解は深まるでしょう。

先祖代々浄土真宗の家系で、既に3回も喪主を務めて僧侶が法要の最後に唱える白骨の御文章の「されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。」が印象的で今でも思い浮かびます。
また中学校はミッション系スクールだったので、礼拝の時間と聖書の授業でキリスト教にもかなり深く接したことがありました。
しかし、現代人として自然科学のもの凄い威力を理解すればするほど、何も判らなかった大昔に組み立てられた理屈に洗脳されることはありませんでした。
今回コメントとして長くなりすぎるので、私自身の死生観は次の機会で披露しようと思います。

現在は近親者の死には滅多に遭遇する機会がないし無宗教化が進み、死をタブー化する傾向が非常に強く、なるべく真剣に考えないよう人生を享楽的に過ごすことが肯定されて主流となっています。
アルフォンス・デーケンが教鞭を取った大学で「死の人間学」講義を履修した弊愚息が書いたレポートを見付けたのですが、やはり多感な年頃に母親を失って間もない時に書いたので、今読んでも心に迫るものがあります。


------------------------以下引用 -----------------------
 20世紀においては、特に戦後50年、死のタブー化が進み、日本においてもその傾向は如実である。戦後では、医療の発達、国内の安定により身近な人の死に接する機会が少なくなってきており、そのことが私達が死をどう捉えるか考える意識を希薄にしてきたのだと考えられる。このような状況の中で、教育の現場において死への準備教育が重要視されてきている。各国ではさまざまなプログラムによって子供たちと本音で死について語り合わせ、学習するような体制がとられており、日本に比べてかなり進んでいる印象を受けた。そしておそらくそれら多くの国では、その生徒自身の身近な人の死についてどう感じたか語り合うといったような授業が行われているようである。そうした教育を「悲嘆教育」と呼ぶらしいが、これについて私は実に考えるところがあった。

 身近な人との別れの経験、つまり自身の喪失体験を語ることによって、その生徒は似た体験をした生徒たちと共感しあえ、またそれ以外の生徒たちにはそうした経験をした人がどのような気持ちでいるかを知ることができる。つまり喪失体験への精神的なケアと、死への準備教育の両方を同時に行えるメリットがあるということである。私が「死の人間学」を受講した大きな理由は、リアクションペーパーに度々書かせて頂いている通り、自分の母親の喪失体験である。そこで、この体験への精神的なケアとして、そのような同じ境遇にあるひとと共感することがいかに役立つかということは、前々から常に感じていたことである。私には兄弟がいないため、母親が亡くなったときその死をどう捉えていいか話す相手がおらず、一人で悩んでしまうことがよくあった。こんなときに、先の「悲嘆教育」のように、同じような年代で母親を亡くした体験を持つ人と語り合えたらどんなに心の支えになったかと思う。今でも、そのような同じ境遇の人と語り合えたらなあとも思うが、実際にそのような人が近くにいたとしても、なかなかそのことについてお互いが触れたがらないことも、私の経験上また事実である。これも、日本において死のタブー化が進んでいることを示す一例なのだろう。

 アメリカには悲嘆教育と悲嘆カウンセリングのための専門の施設があるようであるが、これも日本ではあまり馴染みがなく、ある意味とてもアメリカらしい施設であると感じた。アメリカでも学校や家庭では、親を亡くした子供たちの悲嘆ケアがあまり進んでおらず、そうした通り一遍の対応では心の痛みは癒えない。そこで、子供たちの精神的なケアをする専門の施設が必要になってくるのだが、そこには感情を思い切り表出するための部屋というのがあるらしく、とても興味深かった。悲嘆のプロセスを乗り越える上で、あまり泣いてはいけないなどの制限を加えるより、思いっきり身体を使って感情を表に出したほうが、心の癒しになるのだという考えが根底にあるようだが、私は少し違和感を覚えた。そのような傷ついた子供たちがわざわざ泣き喚いてよいと言われて、またその専用の部屋まで与えられて、はたして心の癒しとなるのだろうか。日本人とアメリカ人では、文化その他国民性まで含めて、異なる点は多々あるので、一概にはどちらが良いとは言えないと思うが、少なくとも自分はそうした悲嘆のケアには、日常生活の中で信頼できる身近な人々と時間をかけてその死について考えいくといったスタイルの方が効果があるのではないかと思う。そのような施設はなにか特別な人だけが行くあまり開かれていない悲しみの施設といったイメージを持ってしまうのは、私だけだろうか。死をタブー化しないといった点では、そのような施設の必要性を見出せるが、親を亡くした子供だけを集めてケアすると、どうしても逆に子供の心の傷を深くしてしまうといった弊害も存在するのではないかと感じてしまう。

 大切な人の喪失体験による心の傷を癒してくれる最も効果的なものは「希望」ではないかと思う。キリスト教の信者でない人でも、天国でまた再会できると信じる人は多いであろう。私も6、7才の頃、祖父、祖母を一年間で三人も亡くしたが、その時自分で考えた最も納得のいく悲しみの乗り越え方は、自分の生きている将来きっとタイムマシンが発明されるので、それを利用して過去に戻り祖父母たちの病気を未然に防ぐといった「希望」であった。さすがに母親を亡くした時は、もう高校生だったのでそのような考えは、浮かばなかったが、それでも母は自分の中に生きていていつでも守ってくれていると信じている。しかしながら、科学現実的に物事を捉えてしまう性格のため、頭ではそう信じたいと思っていても、心のどこかでは、母親という存在はもうどこにもなくて、物質的、意識的にも存在するはずがないのではと考えてしまう。それは、自分の死への恐れといったことにもつながる。やはり所詮、生物は死んだらそれでその肉体、意識、魂までも永遠に消滅してしまうのではないかと常々考える。天国で再会する、心のなかに生きつづけているなどと信じるのは、「希望」のためにやはり自分の都合にいいように解釈しただけのことではないのかと。

 母が亡くなったとき、多くの方が手紙を下さったり、声をかけて慰めてくれた。しかし、意外にももっとも慰めになった言葉は何かと問われれば、葬儀でのお坊さんの「寿命だったんでしょうね。」という一言であると答える。母親の死は、最初どうしてもう受け入れられず、納得のいかないものであった。他の誰もが同じ体験をすれば感じると思われる通り、どうして自分だけがこんな目にと思っていた。このように考えているうちは、いくら慰めてもらっても、本心からは傷は癒えないと思われる。しかし、これは運命だったんだ、自分ではどうすることもできなかったんだ、と考えるようになると、少しは納得でき、心も落ち着く。母の死をきっかけとして良くも悪くも、世の中には自分ではどうすることもできないような不可抗力が存在すると考えるようになってしまった。

 母親の死のとき最も感じたのが、よく言われるように、親孝行しようと思ったらもう親はこの世にいないといったことである。確かに母親には親孝行と呼べるようなことは、殆どやらなかった気がする。亡くなった人を慈しみ愛する気持ち、これは亡くなったのが自分の親であれば当然の気持ちであるが、それが母が生きているうちにうまく伝えられていたかというと、必ずしもそうは言えないだろう。別に親を悲しませてばかりいたとは思わないが、特別にそうした気持ちを行動で表すことは、照れもあってなかなかできなかった。大切な人の死、そして自分自身の死の場合もそうであるが、やはり大切なのは、そこから何を感じ何を学び、どうこれから死ぬまでに活かしていくかということであると思う。タブー化を防ぐ意味合いで、常に死について他の人と考えていかなければならないとは思わないが、やはり身近な人を亡くした経験のある人は、誰しもその死に関して考えるところがあるだろう。それを自分のために活かすというと、何かその人の死を都合の良いように利用しているとも捉えがちだが、そうではなくてその人を悼む気持ちには変わりがあるはずはないので、いつもよりよい場面で支えとなっていくことができるのではないかと思う。

...(続きを読む)
処理 記事No 暗証キー

- JoyfulNote 改 -